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吉田松陰直筆写し勝ち守り。東京松陰神社をゆく
こんにちは
めぐる@神社めぐりナビゲータです
2015年度のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」では
ヒロインは吉田松陰の妹ふみ(文)。
彼女の
幕末から激動の長州藩という枠組みの中から
明治維新を迎え、
生き抜いたさまを展開していくようですが
兄である、吉田松陰は
めぐる@神社巡りナビゲータが
かつて山口県を訪れた時には
地元の方は誰もが「松陰先生」と敬意を込めて
呼んでいました。
松陰読本なる
吉田松陰の一生を
小学生にわかるように解説した
年譜や図表、写真のたくさんはいった
小冊子があります
めぐる@神社めぐりナビゲータも
一冊買い求めましたがとてもわかりやすくて
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松陰読本
「今日よりぞ幼心をうち捨てて人となりにし道を踏めかし」
の言葉を胸に
小学校に通いだすというのも
なにか心打たれるものがあります
また
松陰読本の79ページにある
士規七則には
現代人にこそ読んで頂きたい心得が
つまっているような気がします
吉田松陰は安政6年10月27日に
安政の大獄に連座した罪で
江戸伝馬町の獄中にて
数え年で30歳の若さで処刑されてしまうのですが
父、叔父、母に別れの言葉としてしたためた
「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」
処刑前日に書き上げたという
門下生にあてた『留魂録(りゅうこんろく)』の巻頭の
「身はたとひ武蔵の野辺(のべ)に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
これらは
辞世の句として詠まれたといわれていますが
一度は聞いたことがあるのではないでしょうか
処刑された4年後の文久3年には、
門下生であった高杉晋作、伊藤博文らによって
東京は世田谷若林の地に改葬されたことは
ご存じですか?
というのは若林という
この土地が長州毛利家のお屋敷のあった
抱地(かかえち:農民より買い上げした土地)で
あったからだということです
そこで
静かな
東京世田谷の「松陰神社」訪ねてきました。
なんと
こちらの鳥居は朱塗りではなくて
真っ黒なつや消しの地味なものなのです
お電話で、なぜ黒いのですか?と
のちほど社務所にお尋ねしたら
「景観との調和」と言うことだそうですが
シックな感じがして
いかにも
吉田松陰らしい格調ある構えだと思いました
いつぞや
めぐる@神社めぐりナビゲータが
萩の地で撮影した
松陰神社はこんな古びを帯びた
木の鳥居でした。
やはり朱塗りでなかったのは
当時の世相をおもんばかったからでしょうか
吉田松陰は
近年では学問の神として崇敬を集めていて
参拝の人が絶えないそうです
まして、大河ドラマの影響なのか
これまでになく年代を問わず
多くの人が訪れているようです
東京世田谷の松陰神社には
山口県の「松下村塾」のそっくりの
建物が建てられていてびっくりしました。
再現建築だそうです。
萩市で
めぐる@神社めぐりナビゲータが
見たのとおんなじでした。
天保11年、吉田松陰が11才の時には
藩主であった毛利慶親公に
武教全書を講義したという早熟ぶり。
日本古来の山鹿流兵学を修めながらも
西洋兵学に触れ、鎖国状態であった日本の
将来を案じて、当時は御法度であった
黒船に密航を企て失敗に終わるも
「松下村塾」
で将来の日本政府を形作る人物に
その意志を伝え
明治維新を担う人材を多く輩出させた
歴史的な影響力というのはたいしたものです。
早逝の行動家には頭の下がる思いがします
現在の社殿は昭和2年から3年にかけて
造営されたもので
なかなか見応えのある立派なものです
めぐる@神社めぐりナビゲータは
暇があると
松陰読本を読んでおります
秀才と言っても間違いない
吉田松陰にちなんで
合格祈願に参拝する方はとても多いようですが
神社では
吉田松陰直筆写しの「勝」の
文字をいただいたお守りがあります。
吉田松陰が自分を
「自分の弱い心に負けないように」と
戒めた願いが込められているとのこと
勝守
(かちまもり)
勝絵馬
(かちえま)
ともに人気があるようです
●今日の神社●
東京松陰神社
ご祭神:吉田寅次郎藤原矩方命
(よしだとらじろうふじわらのりかたのみこと)
住所:東京都世田谷区若林4-35-1
神社開門時間:朝7時から夕方5時まで
交通手段:京急世田谷線
「松陰神社前駅」下車徒歩約3分程度